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2006年6月1日
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23年目の検証
主催興行を明日に控え、新日本プロモーションS口社長が金沢入り。 電話では、しばしば会話しているが顔を合わせるのは約5ヶ月振り(^ー^)
業界入りする以前、私が憧れた人物でもあるS口社長。 自身の成長を披露するわけではないが、夜の繁華街でご接待させていただく 〜( ̄▽ ̄〜)
魚料理に舌鼓を打ちながら、酔いに任せ“ファン心理”を発揮した会話をしてしまう(~ヘ~;)
何せ、明日は今から23年前のプロレス黄金期に世間を騒がせた【6・2蔵前 猪木失神事件】の記念日(?) 当時のS口社長は、『アントニオ猪木秘書』として、 「アントニオ猪木と一緒にいる時間が間違いなく一番長かった男」(S口社長・談)だ。
私が、この仕事をしたいと思う気持ちが芽生えた時期の事件だけに、あの時代の話をするのが楽しくて仕方ないヽ(´▽`)/ 【猪木失神事件】に関しては、今でこそ様々なMOOK本などで披露されているが、多忙なS口社長とせっかく二人きりでいる機会に“ナマの声”を取材させていただくとする(;¬_¬)
S「あの頃は毎日が忙し過ぎて、何にも余計なことを考える余裕がまったく無かったなぁ。その日一日をこなすのが精一杯だったよ。あの日(1983.6.2)も別段、特別なことをしている気持ちは無かったよ」
割愛させていただくが、全盛期のアントニオ猪木と過ごしていた凄まじい毎日を披露していただく (☆o☆)
さて肝心の“6・2の夜”、ハルク・ホーガンのアックスボンバーでKOされ、救急車で搬送された東京女子医大病院の病室から、 S「(当時の猪木さんの愛車・キャデラックの)自動車電話に猪木さんから電話があったんだよ。『迎えに来い』って」 当然、携帯電話など無かった時代だ。
S「リムジンじゃ、さすがに目立つから、マークUに乗って(病院の)裏口に乗り付けて、スンナリ自宅(代官山のマンション)に送ったよ」 私「マスコミは張り付いてなかったんですか!?」 S「いたけど、誰も気付かなかったな」
S「あの当時、代官山のマンション(猪木さんの自宅)の鍵を持ってたのは、猪木さん本人と倍賞美津子さん(当時の猪木夫人)と俺の3人だけだったからな」 私「新間さん(当時の猪木さんの右腕と呼ばれた男)は持ってなかったんですか?」 S「持ってない!(キッパリ)」
某MOOK本からの抜粋だが 猪木「俺が(IWGPリーグ戦で)優勝しても、東スポ(東京スポーツ)しか書かねぇじゃねぇか」 現在と違い、スポーツ紙でプロレス記事を掲載しているのは、東スポとディリースポーツだけだったはずだ。
『猪木、試合中に倒れる』の報は、朝日・読売・毎日の3大紙をはじめ、NHKや民放各局でも報じられる“社会的事件”となったのである。
私? 1983年6月3日、中学校へ登校する前に、北國新聞(石川県の地元紙)の朝刊を見て絶叫しましたよ(~ヘ~;)
日本国民が、“燃える闘魂”の手中に乗っていた良き時代である(´ー`) まさに【イノキ・ボンバイエ!】
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